さんさか ネルドリップ珈琲と本と

マチネの終わりに

マチネの終わりに
手垢のついたような表現しかできない自分がもどかしいのだが
こういうのを「美しい文章」というのだろうと感じた素晴らしい読書体験でした。
(どうでもいいのだが、なにかにつけて‘美しすぎる’みたいに、“〜すぎる”を使う奴は
 大抵どアホだと思う。例えば女優やモデルのインスタを一般の人が見て、美しすぎると
 コメントを書き込むのだが、美しいからそういう仕事に就きさらに磨きをかけているの
 だから、至極真っ当な話で、どうにも不毛なデジタル機器の使い方だなぁと感じる。)
 
読む前からこの「マチネの終わりに」については、良い評判ばかり見聞きしていたものの
平野啓一郎ということで苦手意識が先行し、常連客の若い彼の「めちゃくちゃィ良かったですよ!!」
というのがなかったらまず手をつけなかった。
平野啓一郎とは同世代なので、デビュー作「日蝕」で芥川賞に選ばれ、「三島由紀夫の再来」と
評され文壇を賑やかしていたのでよく覚えている。
当時、興味本位で読んではみたけどちんぷんかんぷんでさっぱり理解できず、読み切れなかった。
以来、自分にとって平野氏は難解で避けてきた小説家なので、20年ぶりの平野作品である。
 
長い小説や短いコラム、誰のどんな文章でも、理解できなかったり、読めない漢字だったり
前後のつながりを確認したくて少し戻って読み返すことはあるが、この「マチネの終わりに」
のページを戻り読み返す目的は違う。
開いたページをもう一度目で追い、この素敵な文章を自分のものにできやしないかという
くらい本当に素晴らしいのだ。
この才能だったらぜひ欲しいものだと思う。
恋愛小説だから分かりやすいのも幸いだったけど、大局でスマホでのメールのやりとりが重要な
役割を果たすのには幾分げんなりしつつも、30年後も名作というより今が旬な小説なんだろうと思う。
 
恋愛の一進一退が、ウォンカーウェイの「恋する惑星」を観たときのもどかしさと恥ずかしさが蘇る。
あるいは交際し始めのカップルか、良い関係まであともう少しという男女が、お互いの掌を合わせて
意味もなくその大きさの違いを比べているかのような他愛ない光景をみて、それが触れ合うための
口実だとオッサンでも思い出す。